さつまいもの歴史上重要な人物、青木昆陽、大瀬休左衛門、野国総管、儀間真常、井戸平左衛門、下見 吉十郎、あなたは何人知ってる?さつまいも好きなら知っておきたい

他のコラムでもさつまいもが日本に伝来した歴史、広まった経緯、各地で生産している種類などをお伝えしてきましたが、さつまいもを語る上ではずせない人物たちがいます。ここではその人物たちを掘り下げて(さつまいもだけに…)みたいと思います。

青木昆陽 さつまいもの先生、甘薯先生

さつまいもを日本に広めた人物といえば、青木昆陽ですね。江戸時代の蘭学者ですが、植物学者でもあった青木昆陽。さつまいもと言えばこの人!みなさんも教科書に出てきたので、なんとなく覚えているという方、いるのではないでしょうか?他のコラムで詳しく解説しているので今回は割愛しますが、青木昆陽がいなければ、日本各地でさつまいもは栽培されていなかったかもしれません。それゆえに、さつまいも=唐芋、甘薯=甘薯先生と呼ばれ、今日までその偉大な功績が讃えられています。

大瀬休左衛門 伝来の地の芋神様、さつまいもの神様

青木昆陽が成功する以前に、種子島において、いち早く甘藷は栽培されています。その甘藷の栽培に成功した人物は、種子島(現在の西之表市)の大瀬休左衛門です。第19代島主、種子島久基は、元禄11年(1698年)琉球の王から甘藷=さつまいもの苗を手に入れました。そして、その苗の栽培方法を研究するよう家臣に命じました。家臣である大瀬休左衛門は試作をし、試行錯誤が続け、ついに甘藷の栽培に成功します。それが薩摩藩に広まり、7年の歳月をかけ島全土に広がりました。

※今日、私たちに芋神様と広く知られた青木昆陽は、元禄11年(1698年)に誕生しています。青木昆陽が甘藷の栽培に成功するより更に先に、種子島では全土で栽培が行われていたようです。現在、さつまいも=薩摩藩の芋と呼ばれているのはこのような史実に基づいているのですね。

現在、西之表市では、毎年11月に「さつまいもフェスタ」と銘打ったイベントを行っています。その「さつまいもフェスタ」の開始前に、大瀬休左衛門の子孫に当たる大瀬家が西之表市長に、その年に収穫されたさつまいもを献上するのが現在でも恒例行事になっているようです。種子島は鉄砲伝などで有名ですが、さつまいも発祥の地でもあるのです。

種子島はサツマイモ栽培国内初成功地

引用:一般社団法人安納芋ブランド推進本部より

野国 総管(のぐに そうかん)、儀間真常 さつまいもの伝来者

野国 総管が唐(現在の中国)から持ち帰った甘藷を、沖縄中に広めたのは儀間真常という人です。総管は、1611 年に薩摩(鹿児島県)より木綿の種を持ち帰り、栽培に成功し、沖縄の木綿織の普及に尽力しました。1623年には、製糖法の技術を中国から導入し、沖縄の砂糖作りの基礎を築きました。さらに、中国から持ち帰った甘薯という植物を栽培し、人々の食料になっていることが、儀間真常の耳に届きます。儀間真常は、儀間村の地頭職(地方をおさめる役人)身分の高い士族でした。

甘藷の伝来については、野国総管が伝える前に、先の1597年、宮古島に伝わったという説もあります。しかし、その説が真実だとしても、宮古島に伝えられた甘藷が他の地域にも広がり、人びとの生活に大きな影響を与えたという記録は、現在のところ見つかっていないようです。野国総管が伝えた甘藷は、沖縄の人びとを飢の苦しみから救い、当時の主食さえも変えてしまうほどの大きな影響を与えたことがわかります。嘉手納町では、毎年10月の第1土曜日・日曜日の両日に、野国総管まつりを催し、その前夜祭として、野国総管宮において例祭をとり行っています。

甘薯を伝えたふるさとの先人たち 

儀間 真常は沖縄の産業の発展に尽くした3大恩人(野國 總管・蔡温)のひとりとしてよく知られています。

引用:沖縄県嘉手納町より

井戸平左衛門 さつまいもの代官

島根県太田市の石見銀山などで代官を務めた井戸平左衛門も、享保の大飢饉の際、青木昆陽同様にさつまいもの栽培基礎を作り、人々を飢えから救いました。在職はたった2年間と短かったのですが、その功績から「イモ代官」と呼ばれて、今も島根県の人々に親しまれています。そんな井戸平左衛門ですが、人々を救うため年貢を少なくしたり、幕府に背いて年貢として納められた蔵米を飢えたその土地の人々に施したりしたため、責任を取って切腹したとも伝えられています。

悲しい最後ではありますが、先見の名と、素晴らしい地政を行なった代官が「イモ代官」と呼ばれていた言い伝えに、気持ちがほっこりします。

代官井戸平左衛門の墓(だいかん いどへいざえもんのはか)市指定 史跡

引用:岡山県笹岡市より

下見 吉十郎(あさみ きちじゅうろう) さつまいもの地蔵

享保の大飢饉と呼ばれる時期、瀬戸内海地方でも同様に、史上最大の凶作に陥っていました。瀬戸内海を中心に100万人の餓死者を出したとされています。その時、大三島(現在の愛媛県今治市)の周辺では1人の餓死者も出さなかったようです。そのわけは、大三島だけ当時薩摩藩でしか栽培が許されていなかったはずのさつまいもが作られていたのです。それどころか、苦しむ伊予松山藩に米700俵を献上したとの記録が残っています。飢饉の多かった故郷である瀬戸内に、危険をおかして薩摩藩から内緒でもらい受けたさつまいもを広めたのは、下見 吉十郎(あさみ きちじゅうろう)という人物でした。

吉十郎は、瀬戸内海の大三島に生まれましたが、凶作続きで4人の子を失い、その霊を慰めるために全国行脚に出て、その旅先、鹿児島のある農家でさつまいもに出会いました。彼の苦しい状況を聞いた農家の主は禁を犯して種芋を譲り、吉十郎は持っていた小さな仏像に穴を開け、甘藷の種芋を隠して命懸けで持ち帰り、瀬戸内に広め人物としてました。その功績から、吉十郎は多くの人を救った人物として大三島で慕われ、今も甘藷地蔵として島内や近隣各地に祀られています。

下見吉十郎は伊予国の豪族河野氏の子孫であり、寛文13年(1673年)に大三島の瀬戸村で生まれた。

引用:ウィキペディアより

まとめ

さつまいもの実力はただおいしいだけではありません。栽培もしやすく、やせた土地でも育つさつまいもはもともと、凶作や飢饉に備えて育てられる救荒作物として、その栽培が広がりました。江戸時代の三大飢饉といわれる「享保の大飢饉」「天明の大飢饉」「天保の大飢饉」。

また最近では、第二次世界大戦中と戦後の食糧難の時代など、さつまいもはその栽培のしやすさと、高い栄養価で、多くの人々の命を救いました。近年の焼き芋ブームを背景に、青果用のさつまいもの国内需要は伸びており、味の良さから輸出も急拡大しています。しかし、日本のさつまいも栽培面積は病害虫の発生や、生産者の高齢化もあって年々減少しています。救荒作物として多くの人々を救ってくれたさつまいも。そして今回お伝えした偉人をはじめ、今日まで市井の人々の努力によって生産が維持されてきました。

これからもずっと安心しておいしいさつまいもが食べる続けることができるように、祈るばかりです。