父から受け継いだ作業手帳。小児喘息で幼少期、全く運動が出来なかった体だった私が「できる幸せ」と「笑顔」について書いてみた

農業について

お米。私の幼少期、いとこや親せき、大人数で、お米の種まき、稲刈りをしたものだ。父が握るバインダーの後ろについて、青ひもで結ばれた稲を田んぼの中に広げていく。庭で、殻のついているお米を干す。これを干すときの、取り込みをするときの、あのイガイガは、本当に嫌なものだった。イガイガ、チクチクから逃れようと、私は部活部活のバスケの日々だった。今では、種まきは家族でするが、その後の管理、早期米、普通作米とも、今は兄が何軒かの分を引き受け、田植えから稲刈りまで全部ひとりでしている。さつまいもと同じ、土の量・肥料の数量・種の量を計算しながらやっている。その計算は、父から受け継いだ、毎年書いている作業手帳。

○月〇日に、種まき。
○月〇日に、稲刈り。

父から受け継いだ兄がいるから、私たちは美味しいお米が食べられる。何家族分かのお米を作って、頂く幸せを頂いている。家族で作る楽しみ、そのお米を家族でいただく母の手料理。これが、私や子ども、孫たちの最高の幸せなのだ。

できる幸せ

私は、小児喘息で、幼少期全く運動はできない身体だった。小学2年生の頃、その身体で、ミニバスケに入部した。私の人生、小学2年生から高校3年生、五島にUターンして社会人バスケに、ミニバスケの指導。私の身体を丈夫にしてくれたのはこのバスケだった。運動してはいけない身体、動いてはいけない身体と言われ続け…。でもバスケで、私は、「ちょっと無理かも」から「できた」という経験を得た。その「できた」という喜びが、嬉しい」に変わり、「できた」という喜びが、私の「宝」になった。できる、できないは自分がどう動くか、自分の手を、自分の足を、どう動かすか動かさないかの違いだと思う。

笑顔。

「できた」「嬉しい」喜びを得た時の笑顔。笑顔があるからみんなも笑顔。毎日毎日、笑顔でいられるわけでもない。でも、そんな時、私を助けてくれているのは家族、一緒に仕事をしてくれている職場の皆だ。

キツイ時はキツイと言っていい。
苦しい時は苦しいと言っていい。

みんながみんなを助け合っていけていれば、私もみんなも、笑顔で過ごせるのだから。どこかで、誰かが、きっと、見てくれているのだから。

私のお休み。

自分が笑顔でいられるため、私は時間があれば、バイクに乗り、山に行く。ケガはつきもの。このお休みでも同じ。一つのコースを走れるようになった喜び。怖いけれど、このコースを走れた時は、最高な気持ちになる。いろんな「できる」につながるから、私のお休みは、心も身体も、鍛えられるお休みになる。

大きな存在

私は、9年前に父を亡くし、その1年後、仕事で忙しい両親に変わって、小児喘息だった私を世話してくれた祖母を亡くした。父も祖母も家族や私に、色んないっぱいの笑顔と幸せを残してくれた。私は、今、母がいてくれるから、お仕事も、お休みも、思う存分生活できる。母がいるから、私がいられる。だから、私は、これからも、幸せと笑顔を、母にいっぱい返していこうと思う。一年前病気がわかり、身体の一部を失くした母。なくすではない、私は、母に笑顔を与え続け、母を守っていこうと思う。きつくても、苦しくても、笑顔で乗り越える。乗り越えられる。家族の笑顔のために、私を助けてくれるみんなの笑顔のために。

私は、今日も明日も笑顔でい続けようと思う。