今では季節を問わず、スーパーマーケットで気軽に手に取れるさつまいも。焼き芋や天ぷら、スイーツなど、私たちの食卓にすっかり溶け込んでいる存在ですが、日本で当たり前に食べられるようになった歴史をたどると、意外と長い時間が流れていることに気づきます。さつまいもが日本に根づいたのは、今からおよそ400年以上前、1600年頃の江戸時代初期といわれています。
もともとさつまいもは、日本生まれの作物ではありません。原産地はメキシコを中心とした中南米の熱帯アメリカ地域。そこから世界各地へと広がり、日本にも伝わりました。ただ、伝わったからといって、すぐに全国へ普及したわけではありません。痩せた土地でも育ち、飢饉の際に人々の命を支える作物として定着するまでには、大きな転機がありました。
その重要な役割を担った人物が、青木昆陽です。江戸時代中期に活躍した蘭学者であり、飢饉対策としてさつまいもの栽培に注目し、その有用性を幕府に伝えました。青木昆陽の働きによって、さつまいもは「救荒作物」として評価され、各地で栽培が進められるようになります。
もし青木昆陽がさつまいもの価値を見出し、広めていなければ、現在のように日本各地でさつまいも文化が花開くことはなかったかもしれません。甘くておいしいだけでなく、人々の暮らしを支えてきた歴史があるからこそ、さつまいもは今もなお、多くの人に親しまれ続けているのです。
青木昆陽(あおきこんよう)

青木昆陽は、江戸時代中期に活躍した蘭学者であり、同時に儒学者としても知られる人物です。日本にさつまいもを広めた人物として名前が残っていますが、その歩みをたどると、学問と実践の両面から社会に貢献した姿が見えてきます。
1698年(元禄11年)6月19日、現在の東京都にあたる江戸の地に生まれた青木昆陽は、若い頃から学問への関心が高く、京都で儒学を学びました。当時の日本では、凶作や飢饉がたびたび起こり、多くの人々が食糧不足に苦しんでいました。そうした時代背景のなかで、昆陽は学問を自分のためだけでなく、世の中の役に立てたいと考えていたといわれています。京都で学んでいた際に出会ったのが、さつまいもという作物でした。痩せた土地でも育ちやすく、収穫量も安定しているさつまいもは、飢えを防ぐ手段になり得る存在です。昆陽はこの可能性に強い関心を抱き、飢饉に苦しむ人々を救うためには、さつまいもを広く普及させることが重要だと考えるようになります。
その後、青木昆陽はさつまいもの有用性を調査し、栽培方法や食べ方についても研究を重ねました。学者として得た知識を現実の暮らしに結びつけ、社会全体を支えようとした姿勢は、当時としては非常に先進的だったといえるでしょう。こうした地道な取り組みが、のちに幕府からも評価され、さつまいもが救荒作物として各地に広まるきっかけとなりました。
1769年(明和6年)11月9日、青木昆陽は71歳で生涯を終えますが、その功績は今もなお語り継がれています。私たちが日常的に口にしているさつまいもの背景には、人々の命と暮らしを思い続けた青木昆陽の存在があり、その志が現代の食文化へと静かにつながっているのです。
青木昆陽の経歴
青木昆陽の歩みをたどると、学問への強い志と、時代を見据えた行動力が浮かび上がってきます。生まれ育った環境に安住することなく、自らの関心に従って道を切り開いていった姿は、後にさつまいも普及へとつながる大きな土台となりました。
青木昆陽の実家は魚問屋を営んでおり、家業を継ぐという選択肢もあったと考えられます。しかし昆陽は、商いの道ではなく学問の世界に強い興味を抱きます。当時、中国や東南アジア諸島を中心に広く思想的影響を与えていた儒教に関心を持ち、人としてどう生きるべきか、社会はどうあるべきかを学びたいと考えるようになりました。そうして江戸、現在の東京を離れ、学問修行のため京都へ向かいます。京都では、当代きっての儒学者であった伊藤東涯の門を叩き、本格的に儒学を学びました。伊藤東涯のもとでの学びは、単なる知識の習得にとどまらず、現実社会に学問をどう活かすかという姿勢を身につける機会でもあったといわれています。この経験が、後に飢饉対策としてさつまいもに着目する思考へとつながっていったと考えると、昆陽の京都時代は非常に重要な時期だったといえるでしょう。
儒学の修養を積んだのち、青木昆陽は再び江戸へ戻ります。そこで転機となったのが、1733年(享保18年)の出来事です。行政手腕に優れた町奉行として知られる大岡忠相の目に留まり、幕府書物奉行に登用されました。書物奉行は、幕府の蔵書や学術資料を管理し、調査や研究を行う役職であり、学問的素養の高さが求められる立場です。この役目に就いた昆陽は、各地に残る古文書の調査を行うとともに、当時としてはまだ新しかった蘭学の研究にも力を注ぎました。海外の知識や技術を学び、日本の実情にどう活かすかを考える姿勢は、後のさつまいも研究や普及活動にも通じています。机上の学問に終始せず、社会の課題解決へと結びつけようとした点に、青木昆陽の真価があったといえるでしょう。
こうした経歴を積み重ねたからこそ、青木昆陽はさつまいもという作物の価値を正しく見抜き、飢饉に備える救荒作物として世に広める役割を果たすことができました。彼の経歴は、学問と実践が結びついた結果として、日本の食と暮らしを支える歴史へと静かにつながっているのです。
青木昆陽によるさつまいもの普及

青木昆陽がさつまいもの普及に本格的に関わるようになった背景には、当時の深刻な社会状況がありました。彼が幕府書物奉行として働き始める1年前の1732年(享保17年)、日本は「享保の大飢饉」と呼ばれる未曾有の食糧難に見舞われます。凶作が続き、各地で餓死者が出るほどの惨状となり、多くの人々が日々の食にも事欠く状況に追い込まれていました。一方で、現在の鹿児島県にあたる薩摩国では、すでにさつまいもが伝わり、飢饉対策の作物として活用されていたと伝えられています。この事実は、学問を通じて広く知識を集めていた青木昆陽にとって、大きな気づきとなりました。昆陽は京都で学んでいた頃、書物を通して、さつまいもが狭い土地でも育ちやすく、種芋から増やしやすい作物であることを知っていたのです。
この特徴に注目した青木昆陽は、さつまいもこそが飢えに苦しむ人々を救う手段になり得ると考えるようになります。江戸に戻った昆陽は、その考えを自らの胸に留めることなく、当時の江戸幕府8代将軍・徳川吉宗に対し、文書という形で意見を提出しました。学者として得た知識を、現実の政策へと結びつけようとした行動だったといえるでしょう。その進言は幕府に受け入れられ、徳川吉宗の命により、さつまいもの試作栽培が始まります。最初に栽培が行われたのは、下総国千葉郡馬加村(現在の千葉市花見川区幕張)、小石川薬園(現在の東京都文京区・小石川植物園)、そして上総国山辺郡不動堂村(現在の千葉県山武郡九十九里町)の3か所でした。土地の条件が異なる場所で栽培を試みることで、さつまいもの適応力を確かめる狙いがあったと考えられます。
こうした試作を経て、1734年(享保19年)には、江戸にさつまいもが本格的に伝えられました。さらに翌1735年(享保20年)、青木昆陽は、さつまいもの形状や味の特徴、栽培方法などを詳しくまとめた『蕃藷考』を著します。この書物は、さつまいもを正しく理解し、各地で栽培を広めるための重要な手引きとなりました。青木昆陽の行動は、単に新しい作物を紹介したというだけではありません。飢饉という現実に向き合い、学問で得た知識を社会の救いへとつなげた点に、その本質があります。『蕃藷考』の発表をきっかけに、さつまいもは次第に日本各地へ広まり、人々の暮らしを支える作物として根づいていくことになったのです。
さつまいもの歴史

私たちが今、当たり前のように口にしているさつまいもですが、日本に根づくまでには長い時間といくつもの土地を経てきました。その始まりは、1605年(慶長10年)頃にさかのぼるとされています。この年、さつまいもは中国から海を渡り、現在の沖縄県にあたる琉球王国へと伝えられました。日本本土へ直接伝わったわけではなく、南の島々を経由して少しずつ広がっていった点が、さつまいもの歴史の特徴といえるでしょう。琉球王国に伝わったさつまいもは、その後、現在の鹿児島県にあたる薩摩国へと渡ります。温暖な気候と土壌に恵まれた薩摩国では、さつまいもは比較的育てやすい作物として受け入れられ、次第に栽培が広がっていきました。痩せた土地でも育ちやすく、収穫量が安定していることから、日々の食糧としてだけでなく、飢饉への備えとしても重宝されるようになります。
この頃、現在のように「さつまいも」という呼び名が使われていたわけではありません。当初は、中国での呼称である「甘藷(かんしょ)」として知られていました。異国から伝わった新しい作物として、限られた地域や人々の間で扱われていた時代だったと考えられます。
転機となったのが、江戸時代中期に活躍した青木昆陽の存在です。昆陽がさつまいもを江戸へ伝え、その有用性を広く紹介したことで、この作物は一気に注目を集めるようになります。その際、「薩摩国から伝わったいも」という意味合いから、「さつまいも」という呼び名が定着していきました。こうして生まれた「さつまいも」という名前は、時代を超えて現代まで受け継がれています。異国の地から渡り、琉球王国、薩摩国、そして江戸へと広がったさつまいもは、多くの人々の暮らしと食文化を支えてきました。その歴史を知ることで、いつもの一口が、少しだけ特別なものに感じられるかもしれません。
青木昆陽にまつわるスポット

江戸時代に、国民を食の危機から救った青木昆陽。その功績から、史跡や彼を祀った神社が存在します。千葉県と東京都にある、3つの関連スポットを見てみましょう。
青木昆陽甘藷試作地
青木昆陽がさつまいもの試作栽培を行った場所のひとつとして、現在もその歴史を伝えているのが、千葉市花見川区幕張です。京成千葉線・幕張駅の近くには、「昆陽先生甘藷試作之地」と刻まれた記念碑が建てられており、江戸時代に行われたさつまいも栽培の試みを今に伝えています。この記念碑は、1954年(昭和29年)12月21日に千葉県の指定史跡となり、地域の大切な歴史遺産として守られてきました。
この地は、かつて下総国千葉郡馬加村と呼ばれていた場所で、青木昆陽が指導した三つの試作地の中でも、特に高い成果を上げたことで知られています。記録によれば、わずか17個の種芋から、2石7斗6升、重さにしておよそ497kgものさつまいもが収穫されたと伝えられています。当時の農業技術や食糧事情を考えると、非常に驚くべき成果だったことがうかがえます。
この成功は、さつまいもが救荒作物として有効であることを実証する結果となり、幕府や人々の関心を一気に集めるきっかけになりました。痩せた土地でも安定して収穫できるという特性が、数字として示されたことで、さつまいもは実用的な作物として高く評価されるようになります。興味深いことに、千葉県は現在でもさつまいもの生産量が全国上位に位置する地域です。江戸時代に青木昆陽が試作を行い、大きな成果を上げた土地が、現代においてもさつまいも栽培の盛んな地域であり続けている点は、歴史のつながりを感じさせます。幕張に残る記念碑は、さつまいもと人々の暮らしを結びつけてきた長い歴史を、静かに語りかけている存在といえるでしょう。
成千葉線・幕張駅の近くには、「昆陽先生甘藷試作之地」と刻まれた記念碑が建てられており、江戸時代に行われたさつまいも栽培の試みを今に伝えています。この記念碑は、1954年(昭和29年)12月21日に千葉県の指定史跡となり、地域の大切な歴史遺産として守られてきました。
青木昆陽甘藷試作地
住所:〒262-0032 千葉県千葉市花見川区幕張町4-598-1
Tel:043-221-8126
公式サイトはこちら
昆陽神社
昆陽神社は、京成千葉線・幕張駅のほど近くにある秋葉神社の境内に建立されています。この小さな社は、日本の食の歴史に大きな足跡を残した青木昆陽の功績を今に伝える場所として、静かに存在感を放っています。江戸時代中期、日本は度重なる凶作や飢饉に見舞われ、多くの人々が食糧不足に苦しんでいました。そうした厳しい時代のなかで、さつまいもという作物に可能性を見出し、普及に尽力したのが青木昆陽です。彼の働きによって、痩せた土地でも育つさつまいもが各地に広まり、多くの命が救われたと伝えられています。昆陽神社は、その功績をたたえ、飢饉から人々を救った存在として青木昆陽を祀っています。
さつまいもによって人々を飢えから守ったことから、青木昆陽はいつしか「芋神さま」と呼ばれるようになりました。学者でありながら、机上の知識にとどまらず、実際の暮らしを支える行動を起こした人物として、特別な敬意を集めてきたことがうかがえます。現在でも昆陽神社は、地元の人々に親しまれ、静かな信仰の対象となっています。派手さはありませんが、そこには、食べ物が人の命をつなぎ、社会を支えてきたという確かな歴史が息づいています。幕張の地を訪れた際には、さつまいもと青木昆陽の物語に思いを巡らせながら、足を止めてみるのもよいかもしれません。
さつまいもによって人々を飢えから守ったことから、青木昆陽はいつしか「芋神さま」と呼ばれるようになりました。学者でありながら、机上の知識にとどまらず、実際の暮らしを支える行動を起こした人物として、特別な敬意を集めてきたことがうかがえます。現在でも昆陽神社は、地元の人々に親しまれ、静かな信仰の対象となっています。
昆陽神社
住所:千葉県千葉市花見川区幕張町4-803
青木昆陽墓
青木昆陽は晩年、現在の東京都目黒区にあたる下目黒の地に別邸を構え、静かな暮らしを送っていたと伝えられています。その住まいは、大鳥神社の近くにあり、学問と向き合いながら穏やかな日々を過ごしていた様子がうかがえます。青木昆陽の墓は、目黒不動として親しまれている瀧泉寺の飛び地境内にある、目黒不動墓地にあります。生前から人々に「甘薯先生」と呼ばれ、さつまいもを通じて多くの命を救った存在として敬愛されていた昆陽は、自らの墓石に「甘薯先生墓」と刻むことを望みました。墓は住居の南側に建てられ、周囲を樹木に囲まれた、ひっそりと落ち着いた場所にたたずんでいます。
その歴史的価値は高く評価され、1943年(昭和18年)5月1日には、国の指定文化財となりました。学者としてだけでなく、社会に実際の恩恵をもたらした人物として、青木昆陽の存在が後世にまで大切に受け継がれていることが分かります。現在でも、青木昆陽の功績をしのぶ行事が続けられています。毎年10月28日には、目黒不動瀧泉寺で「甘藷まつり」が開催されます。この行事は、10月12日の青木昆陽の命日にちなんだもので、墓前にはさつまいもや花が供えられます。境内には焼き芋やさつまいもを使った菓子を扱う露店が立ち並び、訪れる人々でにぎわいを見せます。
学問から生まれた行動が、人々の暮らしや食文化へと受け継がれ、今もなお形として残っている点に、青木昆陽という人物の大きさを感じさせられます。目黒の地に眠るその墓は、さつまいもと日本の歴史を静かに語り続けている存在といえるでしょう。
歴史的価値は高く評価され、1943年(昭和18年)5月1日には、国の指定文化財となりました。学者としてだけでなく、社会に実際の恩恵をもたらした人物として、青木昆陽の存在が後世にまで大切に受け継がれていることが分かります。現在でも、青木昆陽の功績をしのぶ行事が続けられています。毎年10月28日には、目黒不動瀧泉寺で「甘藷まつり」が開催されます。
青木昆陽墓
住所:東京都目黒区下目黒3-20 瀧泉寺境内墓地 ※瀧泉寺(目黒不動尊)
まとめ
ここまで見てきたように、今の私たちの食卓にさつまいもが自然に並んでいる背景には、青木昆陽の存在が深く関わっています。甘くておいしい食材というだけでなく、人々の命を支えてきた歴史を知ることで、さつまいもが持つ意味はぐっと広がっていきます。江戸時代、蘭学者であり儒学者でもあった青木昆陽は、学問の力を社会に役立てようと考え、さつまいもに目を向けました。関東各地に設けられた三か所の試作地で栽培が行われ、その成果が実証されたことで、さつまいもは救荒作物として高く評価され、日本全土へと広まっていきます。その過程でまとめられた『蕃藷考』は、形や味、栽培方法までを詳しく記した書物として、普及の大きな後押しとなりました。
さつまいもの歴史をさかのぼると、1605年(慶長10年)に中国から琉球王国へ伝わり、そこから薩摩国を経て日本各地へ広がっていった流れが見えてきます。「薩摩国から伝わったいも」であることから、「さつまいも」と呼ばれるようになった名前にも、その道のりが刻まれています。そして、この作物が各地で根づいたことで、人々は度重なる飢饉から救われ、暮らしの安定につながっていきました。
現在でも、千葉県や東京都には、青木昆陽の功績を伝える場所が残されています。甘藷試作地の記念碑や昆陽神社、そして目黒にある青木昆陽の墓はいずれも、地域の人々に大切にされ、静かに歴史を語り続けています。もし千葉県や東京都を訪れる機会があれば、こうしたゆかりの地に足を運んでみるのもひとつの楽しみ方です。さつまいもを通して、人々の暮らしを支えてきた青木昆陽の歩みに触れることで、いつもの食卓が少し違って見えてくるかもしれません。











