五島市の医療体制ってどうなの?気になる!?離島の医療体制とは?自給自足の生活をやってみたかったという五島名物の先生とは?地域医療、離島医療に貢献された偉大なる先生

離島医療に思う事

少し前に、健康診断の結果が届きました。少し不安要素があり、近所の診療所でエコー検査をしました。「大丈夫だろうけど、ちゃんとしっかり検査したほうが良いかも」との事で、紹介状書いていただき、五島病院へ3週間後、検査に行くことになりました。耳鼻咽喉科なのですが、水曜日と木曜日に長崎大学病院の先生達が交代で来て診察してくれるのですが、7月は、1日しか空きがないみたいのですが、予約入れてもらえることになりました。たいしたことはないでしょう?と話されていましたが、きちんと調べてもらって、原因は何なのか?を知りたいと思っています。余談ではありますが、エコー検査をした診療所には、離島研修の先生達もいて、一緒にエコーの画像見ながら、勉強していました。

五島市の病院では、どこにでも見かける研修生です。長崎大学の医学部の学生がほとんどです。五島中央病院は、ほとんどの医師が五島出身ではありません。そのような事から医師が不足しています。離島医療に来る先生は、独身もしくは単身赴任で来られる先生が多いです。五島病院の隣に住宅があります。離島医療は、大変かと思いますが、ドクターヘリであったり、家での往診に来てくれる先生が居てくれたりと、色々と頑張ってくれています。その頑張りに、応えていただけるように五島出身の大石知事に期待しています。

島の名物のお医者さん

島の地域医療に貢献された偉大な先生が5月の終わりにお亡くなりになりました。岐宿町にある山内診療所の宮崎昭行先生です。享年70歳でした。長男が継ぎ、第二の人生を楽しもうとしていた矢先、心不全で福岡の病院で亡くなられました。先生が五島に移住してきたのは23年前でした。当時では、珍しく自宅にも往診に行かれたり、人生の最後を自宅でという家族の願いにも寄り添い、在宅医療に力を入れていました。自転車で往診に行かれる姿も見られ、とても元気なイメージがありました。

その一方で、5人の子どもを育てる父親でもあり、また、農業にも力を入れていました。長崎から五島へ移住したのは、自給自足の生活がしたかったからとのことでした。しかも、無農薬の米作り、昔の牛耕、手植えにこだわっていました。診療所には昔の農機具が展示してあったり、農業の仕事に合わせた、診療時間の設定だったり(笑)長男は医者、次男は鍛冶屋、三男は桶屋と意志を受け継がせるほど、日本の伝統技術にもふれ、炭つくり、茅葺の屋根の家作り、養蜂、晩年は伝馬船も作り、五島に色々な風を吹きこんでいただきました。当初は変わった先生がきたと煙たがられていたかもしれませんが、先生の熱意に賛同する人がその後、沢山出てきたように思えます。

告別式は水ノ浦教会で行われました。生前深く関わりあった人だけを呼び、香典も花も一切受け付けないという遺言に従い、しめやかに行われました。最後の最後まで、先生らしい生き方でした。奥様、子どもたち、たくさんの孫たちに囲まれとても安らかに逝かれたとのことです。宮崎先生に診察してもらった患者は数多く、沢山の人達に、その死は惜しまれていました。合掌