ほろ酔い加減の中、夫がよくする昔、懐かしい嵯峨島の話。無我夢中で生きた忙しい中で、昔をゆっくり思い出す心のゆとりは無かったけど、今は漸く、そのような時間が出来てきています。

夫と母の故郷・嵯峨島での思い出

三井楽町の離島・嵯峨島は夫の故郷です。嵯峨島から福岡に嫁いだ私の母とは逆に、私は福岡から嵯峨島へと嫁ぐことになりました。教員だった夫は、結婚当時、自身の故郷である嵯峨島に赴任しており、そこで新婚生活を過ごすことになったのです。そこで島の食生活について紹介します。嵯峨島には、田んぼが無く米は穫れません。代りに収穫できるさつまいも(当時は白芋と呼んでいた)を栽培していました。夫は幼い頃から畑の手伝いに駆り出されたそうで、早朝でも真夏の炎天下でも草取りをさせられ大変辛い思いをしたそうです。

秋の収穫後には、保存のため「ゆでかんころ」を作ります。その時の茹で汁をしっかり煮詰めて作る「ぎょうせん飴」を舐めさせてもらったときの、喜びは何物にも換え難かったと、大人になった夫は晩酌のほろ酔い加減の中で、よく話していました。無我夢中で生きた忙しさの中で、昔をゆっくり思う心のゆとりは、無かったように思います。今だからこそ、残り少ない(であろう)人生、ようやく昔を思い出し、今を楽しみ、さらにこれから楽しい思い出を刻んでいければと思っております。昔を懐かしむ時間が出来て、こんなに幸せなことはありません。

福江島内でも南部のエリアより北部のエリアに親しみを感じてしまうのは三井楽が亡き母の故郷でもあったからでしょうか。嵯峨島は、貝津漁港から20分あまり西へ行ったところにあります。戦時中、三菱重工長崎造船所で働いていた折に被爆、その後、父と出会い結婚。母は42歳という若さでこの世を去りました。私が20歳の時でした。被爆していたのが原因なのか定かではありませんが、とにかく病弱な母でした。そのため同じ年頃の子供たちが遅くまで遊びまわる姿がどんなに羨ましかったことか…。母が寝込むたびに遊びをしている余裕もなく、家事をしなければいけませんでした。今思えば、ちょっとやりすぎたかな?と思う事は、その時は、子供ということもあったので羨ましくて悔しくて悲しくて、よく母に辛く当たったものです。

干しアワビはどんな味?

そんな日々の中でも夏休みには何度か母の里帰りに一緒に嵯峨島に連れて行ってもらったことがありました。島の子供たちが裸で泳ぎまわるのですが、泳ぎをしたことがない私は、ただじっと浜辺でそのような景色、情景を見ているばかり。その頃の思い出の中でも忘れられないことが一つあります。「干しアワビ」です。島に遊びに行くとその庭先に竹竿に突き刺さったアワビが干してあるのです。私はそれを食べたくてたまらなかったのですが、とうとうこの歳になってもそんな機会に恵まれず…あれは一体どんな味がするのでしょうか?。漁師の多い島ならではの風景でした。